2011年3月31日木曜日

震災で変わったこと変わらないこと

今日で3月も最後。この3月は何だったんだろう・・・今も朝起きるたびに「全ては夢で現実の世界は原発事故とか地震とか津波とかなかったんだ、あー元の世界に戻れてよかった。ほっ」てなれないかなあと念じてしまいます。

とはいえ、北海道に住む私たちは表面上は震災前と変わらぬ生活ができている。停電はなく、スーパーに行けば豊富に物はあるし、料理にミネラルウォーターを使うことも今のところはない。私は朝起きると窓をあけて西に連なる山々に目をやり、おいしい空気を吸い込む。朝ごはんを食べお弁当を持って自転車で北大図書館へ行き、帰って夕飯を作って食べてお風呂に入って寝る。生ごみが出れば段ピー君(ダンボールコンポスト)に食べさせ、カッパさんは北側の部屋の壁についたかびを一生懸命取っている。雪が溶けて暖かくなってきたので、冬の間部屋干ししていた洗濯物も外に干せるようになった。3日に一度の洗濯、1週間に一度の部屋の掃除のルーティーンも変わらず。震災が起こったからといって、博論を提出するという課題は変わることはなく(というか、刻々と時間は少なくなりつつあるので課題は日増しにより大きな課題として迫ってきている)、博論後にやりたい仕事やその後の生活についての希望も変わることはない。私たちが一生札幌で暮らすのか、いつかどこか別の土地に移るのかは今の時点ではわからないが、これからも私はカッパさんと離婚しない限りカッパさんと暮らしていくだろう。

一方震災によって大きく変わったこともある。これまで料理本を夜寝る前に読んだり、明日は何を作ろうかと料理のことを考えるのが楽しみだったが、今は料理のことを考えるのが悲しく、料理をする意欲が萎えてしまった。スーパーに1週間に2回くらい図書館の帰りに寄るのもよい気晴らしだったが、今はスーパーに並ぶ野菜や魚たちに疑いのまなざしを投げかけて選別してしまうのが悲しい。カッパさんも「これまでは値段を第一に見ていたが今は産地を一番に見てしまう。九州産が輝いて見える」と言っていた。これが消費者の偽ざる気持ちではないだろうか。風評被害だと責める声をよく聞くが、実際に放射性物質が降っているのだから、根も葉もある事実である。それと同時に、これまで当たり前のように日々手にとって口にする野菜や魚にどんなに大きなエネルギーをもらっていたのかと改めて思う。

これまで石油ファンヒーターなどすぐにいろんなもののコンセントを抜くカッパさんを、私は「カッパさんはすぐにコンセントを抜く」と文句を言っていたが、震災後は、自分から積極的に抜くようになった。私がベトナムに行ったりしてカッパさんが一人暮らしをすると電気代やガス代はわずか(ガス代なんて私がいるときの10分の1!)だが、私と一緒に暮らすと電気代もガス代も跳ね上がる。湯水のようにエネルギーを使う自分には反原発を言う資格がないのだということを原発事故が起こって数日後これまでの光熱費の領収書をまとめながら考えた。北海道では電力の約4割を原発に依存している。札幌から65キロ離れた泊原発は、2年前に訪れた積丹半島の西側の付け根に位置する。北電は昨日、2012年に始動予定のプルサーマル計画に変更なしと発表した。

原発事故が起こってから1週間くらいは下痢や不眠、食欲不振に悩まされたが、それはこれまで電気をのうのうと使いながら原発の問題に目を背けていた都会人の原発アレルギーそのものだったなと思う。原発事故の可能性は前から指摘されていたし、具体的にシミュレーションしてくれていた人たちもいたし、原発そのものが恒常的にヒバクシャを生み出すものであることを数少なくない本が指摘してくれていた。問題はずっとそこにあったものなのだが、私には見えなかったというより見ようとしなかったということなのだろう。そして今この瞬間にもこちらは変わらぬ生活を送りながら、福島原発でヒバクする人を生み出しているという重すぎる事実を、同じ時代に生を受けている人間としてどう受け止めればよいのか、「感謝」「尊敬」「敬意を表する」「誇りに思う」どれも違う気がして、私には正直なところよくわからない。

昨日夜ご飯を食べながらカッパさんに「カッパさんは明日でこの世が終わるとわかっていても、変わらず過ごしそうだね」と話しかけたらカッパさんも「そうだね」と言っていた。カッパさんは、もし明日でこの世が終わりと知っていても、きっとおコメをといでたっぷり浸水させて音楽を聴きながらフムフムうなずきながらご飯をばくばく食べるだろう。ズボンの下にズボン下3枚くらい重ねて雪だるまのように着膨れしながらカビを拭いたり炊いたご飯をラップに包んだりしているだろう。カッパさんが「どうしてこんなことになってしまったんだろう」なんて言葉をつぶやいても、どこかのんきで重大さが伝わってこなくてユーモラスですらある。そういえば、仙台にいるカッパさんのお母さんも、決して嘆いたりすることなく淡々と過ごしていそうだ。

震災前と震災後で何がどのように変わったかと考えてみたらこのようにいえそう。自分の課題や目指す方向は震災前と変わらない。でも今回の経験でこれから目指したいエネルギーの形や社会のあり方、人との結びつき(北海道に友達ほしいなとか)がよりくっきりとはっきりとした。だから、それを実現するために、明日からの日々を過ごしていこうと思う。

=3月24日(水)25日(木)のごはん=

*ベトナム風鍋(餃子入り)

=3月26日(土)のごはん=

*餃子

*スナップえんどう

*じゃがいもとわかめのおみおつけ

*白米

=3月27日(日)のごはん=

*豚肉のにんにくこんがり焼き、レタスとかいわれ添え

*じゃがいもとわかめのおみおつけ

*白米


おみおつけによく使う生活クラブのわかめは三陸海岸産のもの。

わかめの会社は福島県いわき市にあるが、製造元の会社は

地震で甚大な被害を受けた宮城県志津川で連絡が取れない状況だそう。

わかめは4月も注文していたが供給中止になった。

ここのわかめも、にぼしも、かつおぶしもとてもよかった。

製造元の会社の方々が皆無事でおられるようお祈りしている。

時間がかかっても、またここのわかめやにぼしが食べたいなあ。

=3月28日(月)のごはん=

*豚の角煮、ゆでたまご、青梗菜添え

*やまと芋と海草のサラダ

*じゃがいものおみおつけ

*白米

=3月29日(火)のごはん=

*そいの煮付け、ごぼうとピーマン

*春雨としいたけのスープ

*ごはん

=昨夜のごはん=

*ポークビーンズ

*ゆでブロッコリーとミニトマト、カッパさんがドイツでお友達にもらったという

超濃厚なチーズをつけて食べました。

*パン

=今夜のごはん=

*鮭とブロッコリーのクリームパスタ

*温野菜とチーズ

2011年3月29日火曜日

14歳中学2年生の藤波心さんのブログ

ぜひ読んでください。本質的なことを中学2年生がずばっと指摘している。 http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html

2011年3月28日月曜日

まとめと対策―放射能による食品汚染―

このところ原発事故のことを考えすぎて疲れてしまったので

昨日は気分転換にカッパさんと百合が原公園に行ってきました。

まだ畑の雪はこんなに残っているけれど、道路の雪はほとんど溶けているので

2人で久しぶりに自転車を走らせました。

北海道もあと1ヶ月ほどで本格的な春がやってくるでしょう。

百合が原公園温室の色とりどりの花をどうぞごらんください。



2回にわたってこちらにアップした放射能による食品汚染に関してですが、これまでのまとめと私の意見、考えられる今後の対策について以下に書きます。

・チェルノブイリ事故のデータは、食品による内部被爆の割合が全体の80%と、外部被曝よりも圧倒的に割合が高かったことを示している。そして食品による体内の被曝は、自身で気をつけることによって減らすことができる。だからこそ、食品汚染に関する基礎知識を持つことが重要。


・被曝量を考えるときに重要なのはトータルで考えること。トータルというのは、2つ意味があって、一つは、1人が1年間に摂取する食品のトータルで計算すること、ほうれん草だけ、牛乳だけで考えるのではないということ。もう一つは食品による内部被曝、皮膚などにつく外部被曝の2つを合わせて考えること。とすると、メディアでよく説明がなされる「放射性物質が検出された野菜を100グラムずつ10日にわたって食べても1年間の許容量の半分に過ぎないので問題ない」などという説明がいかに乱暴きわまりないものかよくわかるだろう。私たちは毎日水を飲み、おコメやパンを食べ、野菜や果物を食べる。仮に1日の摂取食品量を1400グラムとすると、ほうれん草100グラムは14分の1でしかなく、しかも汚染はほうれん草だけにつくものではない。そのほうれん草10回分で、1年の半分に達してしまったら、他の食品汚染や外部被曝を許容する余地はほとんど残されていないではないか。

きのこやハーブなど、放射性物質を取り込みやすい食品群があるが、きのこやハーブは人にもよるが、毎日必ず食べるという人は少数派なのではないか。しかし水やおコメ、野菜などは誰もが毎日のように摂取するため、たとえ放射性物質の量が基準値以下であっても、1年のトータルで考えた場合容易に基準を上回るものになりうるということを考える必要がある。


・どのくらいの放射能を浴びたらどんな影響がでるのかといった危険率の評価については、研究者によって評価が分かれるし、許容量の数値は歴史的にも書き改められてきた。日本が採用している1人1年につき1ミリシーベルトという値に関しても、研究者によってさまざまな見解がある。したがって、危険とみなされる被曝量や食品に含まれる放射性物質の基準値は、多分に政治的なものと理解できる。その証拠に、原発を持っていない国は、非常に厳しい基準値を採用している。国際基準と照らし合わせて日本の基準は厳しいと政府は説明しているようだが、チェルノブイリ事故後の、ヨーロッパ各国の対応を見ると、日本の今の基準がかなり甘めに設定されていることに気づく。例えば日本の基準では乳児の飲料水の基準値は1リットルあたり100ベクレルだが、チェルノブイリ後のオランダは乳幼児食品については40ベクレル、ドイツのヘッセン州は乳幼児に対して1リットル牛乳あたりの制限値は20ベクレルとするなど、おしなべて日本より低い値を設定していた。

・著者によれば、広島・長崎の被曝者たちの発ガン率の統計や、長年操業を続けた原子力施設での労働者の発ガンに関する調査などは、低いレベルの放射線の影響が従来考えられてきたよりはるかに高いことを示唆している。なかなか確定的な結論は得られないが、放射線の危険性がかつて考えられてきたものより高いということは、ほぼまちがいのないことだろうと著者は述べている(もちろんこれに対する反論もあるだろう)。被曝した線量が増せば、その人ががんにかかる確率は増えるが、線量が多いからといってがんの症状が重いということはない。低線量被曝は「しきい値」がなく、したがって、低い線量もけっして「安全線量」とはいえず、なにがしかの危険性(がんなどを起こす可能性)をもっていると考えなくてはいけない。したがって、「避けられる被爆は可能な限り避ける」のが正しい。各メディアが繰り返し発言している「ただちに健康に影響がありません」というコメントは、私は「ただちに何らかの症状が現れることはありません。ただ、将来のリスクはごくごくわずかですが増すことになります」と理解している。


・今、私が危惧しているのが、皆がこの状況に慣れてしまって「基準値以下だから大丈夫」「ちょっとの放射能は体に影響がない」と言って、考えることを放棄すること。被曝に関してきちんとした知識を持つことと、慣れることは別である。政府は食品に含まれる放射性物質の暫定基準値を緩和する方向にあるようだが、これは、命を軽視して、ガン死者が増えても仕方がないと政府が考えていることの表れではないか。もちろん私たちは食べなくては生きていけないし、あまりに厳しい値だと食べるものがなくなってしまうのも確かだし、農家の人もものすごい困っている。でもだからといって緩和した基準値をやすやすと認めてしまってよいのだろうか。「この野菜には放射性物質が含まれているけど、基準値以下だから問題ないよ」と人々が言う国に、外国の人たちが旅行にきたり、留学や仕事に来たいと思うだろうか。

・私が今考えている対策は、①各自が入っている生協や食品の宅配などで皆で話し合って放射性物質の測定器を共同で出資して購入したりして、放射性物質の値を独自にはかり、かつ国の基準とは異なる独自の基準値をもうけて、より安全な指標を持つこと。②福島県や茨城県の農家の人たちと話し合い、どうしたら彼らが安全に農業を再開できるか一緒に道を探ること。それまでの間、他県産のほうれん草198円を一束買ったら、同時にこれまでほうれん草を作ってくれていた茨城県の農家の人に198円チャリンと落ちるような仕組みを構築できないものか。

2011年3月26日土曜日

復興したら花嫁を & 放射能による食品汚染2

今朝の新聞の「被災者の声」欄に、福島県の37歳男性の方が「一人暮らしなので復興したら花嫁をさがしたいですね」とあって思わず笑ってしてしまった。「結婚相手」じゃなくて「花嫁」と言うのがロマンチックな響きでよかった!自宅は崩壊寸前で避難所生活を送っておられる中で、未来の花嫁との出会いを夢見ている彼に、明るい希望をもらいました。写真を見るととてもやさしそうな方、よい出会いがありますように。 希望の持てる話の後に、また放射能の話で申し訳ないのだが、昨日の続きを。あまり神経質すぎるのもよくないし、もちろん風評被害を広げようという意図は毛頭ないが、こうして本の内容を紹介することによって、少しでも多くの人が過去の経験から学び未来の被害を減らすことも、前向きな生き方なのだと信じている。私の友人には小さいお子さんを持つ人が多いので、それもここにアップする理由。 高木仁三郎+渡辺美紀子 『食卓にあがった死の灰』講談社現代新書、1990年より ・(日本でチェルノブイリ級の事故が起こったらと仮定して)避難の次にくるべき心配の種は、飲料水の汚染である。雨水の汚染が河川を汚し、その汚れが上水道に入ってくるわけだが、ふつうの都市の水道用浄水場ではなかなかヨウ素の汚染が除去されないと考えるべきだろう。あるデータによると、飲用の水系が汚れた場合、50パーセント以上のヨウ素が浄化系をくぐり抜けて水道水に入ってきたという。ヨウ素以外のセシウムやストロンチウムなど、金属イオンの形で水の中に存在する放射能は、通常の浄化系ではいっそう除去しにくいはずだが、チェルノブイリの経験だと、セシウムは地表下数センチのところまでの地層吸着が強く、意外に雨水→河川→水道水のルートでの汚染は少なかったことは注目に値する。p. 181 ・初期のヨウ素による汚染物は口にしないようにするしか手がなさそうだ。葉菜は洗って食べるとか、飲料水は煮沸するとよいと書かれた手引書もある。確かに汚染した直後の葉菜は、洗浄による除染効果が何十パーセントか期待できるようだ。しかし、さまざまな経験・見聞を総合して一般に洗浄や煮沸の効果にあまり大きな期待はできない、というのが私たちの見解だ。p. 184-185 ・初期のヨウ素の強い汚染をどうにかくぐり抜けた後は、持続的なセシウムの汚染にずっと悩まされることになる。その後の汚染の変化のパターンは、以下のとおり。 <葉菜類>初期の汚染がひどいが、風雨による除去効果、葉の生長などで、濃度は比較的はやい速度で減っていく。その後は、土壌中のセシウムを根から吸収することによる汚染が長いこと残存するが、葉菜類などではそれほど高いレベルではないだろう。 <果実など>果物やナッツ類などでは、当初葉や果実の表面に沈降するセシウムの強い汚染を受ける。この汚染が果実の内部に取り込まれるから、風下にあたる所では初期に何千から何万ベクレルという汚染が広い範囲で検出されるだろう。この葉などの表面からの取り込み分は、時間がたつとやや足早に減っていくが、次第に根からの吸収による汚染が増えだす。 <根菜と穀類>当初の葉の汚染の影響は小さいと考えられるから、事故がたとえば収穫期だったとしたら、大きな影響は受けないだろう。根菜や穀類の場合、セシウム汚染は根からジワジワとやってくる。その根からの取り込みも、根菜類ではそう大きくないが、穀類ではかなり大きく、事故の翌年も土壌の汚染が持続する関係で、相当に強い汚染が残るだろう。 <牛乳・乳製品・肉類>牛乳や牛肉など、牧草の影響を受けるものは、初期から汚染の影響を受けるが、時間がたつと牧草が生え変わったり生育したりで、汚染の影響はやわらぐ。しかし、その後から根からの吸収があるので、数年の間、牛乳・肉などの汚染は顕著であろう。冬期には干草やコケ類の食用の関係で、事故から相当の時間がたった後で汚染が増えだす例があるから要注意である。 ・日本人の1日の平均献立を立ててみて、①特別の選択なしに飲食し、②ただし汚染はとりあえずセシウムだけと考え、セシウム137対セシウム134の比率を10対3とし、③汚染の強いものは流通が禁止されその10分の1程度の濃度のものは出回るとする、という仮定をたて、単純化したモデルだが、事故後1年間のセシウム摂取量を計算すると、1年間の食品による被曝値は6.4ミリシーベルト、摂取したセシウム量は42万ベクレルである。これは原発からさして近くも遠くもない人々がふつうに食生活を送った場合の値である。6ミリシーベルトと聞くと、案外たいしたことはない、と思うかもしれない。しかしそれは一般人の年間の線量限度の6倍以上にもあたり、最近の低レベル放射線の影響評価に即して考えれば、それだけで日本全体でおよそ10万人近いがん死者をもたらすかもしれない。p. 189-192 ・考えなくてはならないのは農民の被爆で、汚染した地域の生産物への食生活上の依存度が高くなること、汚染した土壌や干草を取扱ながら作業をせざるを得ないことから、被曝量は一般人の3-5倍にも達するのではないだろうか。とにかく、原発事故と農業は共存しえない。p. 198 以上が日本での原発事故の仮定以下はまたチェルノブイリの振り返り ・西ドイツの報道などをみても、汚染の強かった乳製品や肉などが単純に廃棄されたわけではなく、うすめられて他の加工品に入ったり、また、基準や検査の厳しくない国に輸出されたり、というケースがけっこう多かったようだ。私たちは消費者の側から、この種のやり方を一方的に批判しがちだが、生産者たちが苦労して育てた作物や家畜を簡単に廃棄処分にするにはしのびない、という気持ちは、よくわかるような気がする。そういう意味で、370であれ、37であれ、10であれ、あまり数字にだけこだわってはいけないだろう。何ベクレルという前に、チェルノブイリの汚染で、濃淡はあれ、この世界がなべて汚染に見舞われてしまったという事実、したがって、たとえ「基準値」以下にせよ、私たちのすべてが、その共通の汚染に見舞われた地球のもとで必死に共に生き続けようとしている存在なのだということを忘れてはいけないだろう。自分だけ、基準値以下のものを手にできれば、というような発想では、とてもやっていけそうにない。p. 210-211 ←この本の中で私が一番心に残ったのはこの部分でした。著者の人間性、全ての命に価値があるという姿勢がよく表れていると思います。 ・チェルノブイリの事故の際のヨーロッパの人たちの経験でも、知識のなさから来る恐怖とパニックが最も危険なことだとったという。一口にいえば、原発問題の基本を身近なこととして身につけている、ということだろう。みんなが原発の至近距離=地元に住んでいるという意識が必要だ。特に、しごく当たり前のことは1)原発事故や主な放射能の種類のその基本的性質についての理解2)事故炉についての基本的知識とその距離3)事故の規模と経過についての迅速な情報4)風向き、風速その他の気象条件 ・ヨーロッパに行く機会に、食品の放射能汚染によって生産者と消費者の関係には溝が入らなかったのか、という点について聞いてみたら、向こうの人たちの反応は「そういう環境の危機の時こそ、生産者と消費者が団結して、もっともお互いに納得できる方法を話し合っていかなくては」ということだ。かえって、生産者と消費者の間の団結は強まったと言ってました。p. 237 ・取材を通して痛感したのは、ひとつの工場の事故が、世界中の食卓の上に汚染物を降り注ぐ。これはなんとも野蛮で暴力的な世界に私たちが住んでいるということではないだろうか。とてもクリーンどころではない。原発か火力か、放射能か炭酸ガスか、というようなところで選ばされてはたまらないと思うのです。もっと賢明で有効なエネルギーの使い方やつくり方を考える方向に関心や努力を向けないで「背と尻か」の選択の話ばかりやっているんですからね。p. 239-240 とりあえずこれで引用終わりです。

2011年3月25日金曜日

放射能の食品汚染に関する基礎知識

今回の原発事故で放射能に関する基礎的知識が欠けていることを痛感した人たちが少なくないと思いますが、私もその一人です。つい2週間前までヨウ素、セシウムなんてまったく知りませんでしたが、いまや日常生活用語になっていますね。オソロシヤ・・・ 日本の脱原発運動の中心的人物であられた故高木仁三郎さんの著書『食卓にあがった死の灰』(講談社現代新書)は、放射能の影響に関する基礎知識を一般向けにわかりやすく説明しているので、一読をおすすめします。ただ、ネットで検索すると古本しかなくすぐに入手できないケースも多いと思いますので、私が重要だと思ったところを下記のとおり抜き出してみます。 ・放射線の被曝に対する基本的な考え方としては、「このくらいは浴びてもよい」という態度は好ましくなく、「避けられる被曝は可能な限り避ける」というのが正しく、この点をよく理解しておくことが食品汚染の問題を考えるときには大切である。p. 30 ・放射線の危険度の評価というもっとも根本的ともいえる問題については研究者によって評価が一桁以上も異なる。現在日本では、一般人の年間許容線量を1ミリシーベルトとしているが、著者によれば、危険率の評価値は少なくとも10倍厳しく改められるべき(許容量を10分の1に切り下げるべき)。p.33-35 ・チェルノブイリ事故後、食品を通して入ったセシウムによって、汚染が体内に蓄積する様子のグラフを見ると、食生活に気をつけて汚染の高いものを避けた人と食生活に気を使わなかった人のセシウムの汚染度の差が歴然としていることがわかる。事故そのものに問題の根本はあるが、事故後の適切な対策の必要性がわかるだろう。適切な対策という点では1.データの迅速で完全な公開、2.迅速な措置(避難が3年半後に立ち遅れた事例もあり)、3.安全サイドの規制(経済や社会に対する打撃への思惑から、住民の安全への配慮=汚染食品の規制が大幅にうすめられてしまった)p. 66-68 ・チェルノブイリ事故後のさまざまな経路から生じる被曝の割合を、オーストリア政府が見積もったものを見ると、そのほとんどはヨウ素とセシウムによるものだが、圧倒的に大きな被曝(80%)が食品からのもので、次に重要なのは地面の汚染に起因する外部被曝(15%)だという。私たちが食品汚染に注目するのもそのためである。事故後、基準値の設定などをめぐるヨーロッパの各国の対応はそれぞれだったが、どの国にも共通していたことは、「人体への影響はたいしたことない」と国民の不安と混乱をおさえるのに懸命だったことだ。正確な情報と具体的な対策を提示しない政府の態度に不信感が高まり、汚染から身を守るにはみずからの手で測定をはじめるしかないと、市民による測定活動が活発に行われるようになった。p.89-90 ・西ドイツでいちばん積極的な対策を実施したドイツのヘッセン州は、5月2日にウシの放牧を控えるよう農家に勧告するとともに(チェルノブイリ事故の発生は4月23日)、乳幼児や妊産婦の安全を考慮し、牛乳の1リットルあたりのヨウ素131の制限値を20ベクレルと決めた。p. 93 ・時間の経過とともに汚染が拡がっていくなかで、汚染から身を守るには市民が独自の自衛策をとっていくしかないと、市民が共同出資して測定装置を購入し、自分たちで食品を測定するというグループが誕生した。放射能を測定する肉屋さんとしてテレビなどで紹介され有名になったペーター・ヤコブさんは、販売する肉を測定し、測定値を明示して販売している。基準値を1キロあたり70ベクレルと設定し、これを超えるものは産地に送り返す。また、肉の入荷のない日は近くの市民のために測定値を開放している。p. 93-94 ・フランス政府はヨウ素131の制限値をミルク1リットルあたり3700ベクレル、野菜1キロあたり2000ベクレルととんでもない高い値に設定した。p. 98 オランダ消費者連盟は、食品の放射能基準値をもっと下げるべきと主張。牛乳・乳製品・乳幼児食品については40ベクレル、その他の一般食品では60ベクレルまで下げるべきだとしている。p. 99 オーストリア政府は、食品の基準値を乳幼児食品についてはセシウム137とセシウム134の合計値で1キロあたり11ベクレルと決めるなど、きめ細やかな設定をしている。p. 104 一般に東欧諸国では測定データなどの公開が十分でなく、市民の側の独自測定などの体制も不可能だったため、市民は混乱したり、また、何の情報も与えられないままに不要な被曝を強いられたりした。p. 103 ・汚染が持続するなかで、とくに汚染度の高い食品は?と問われれば、淡水魚、トナカイやシカなどの野生動物の肉、きのこ類があげられる。これらのほかには、ヘーゼルナッツなどの木の実、果物ではベリー類、香辛料、ハーブ類、紅茶、蜂蜜など。p. 106-107 ・日本の放射能暫定基準値は1キロまたは1リットルあたり370ベクレルである。これを定めたのは1986年10月。その後1989年4月から一般人の年間許容被曝量がこれまでの5分の1、年間1ミリシーベルトに切り下げられたのに、370ベクレルの基準値はそのままである。規制値や基準値というのは、最悪のケースを想定して、それでもすべての人が許容限度より十分低い被曝となるように設定されるべきものではないだろうか。「実際にはそんなに汚染されていないだろう」とか、「実際にはそんなに食べないだろう」というかたちで、制限値を“値切る”ようなことはすべきではないだろう。いずれにしても、厚生省の態度は国民の健康のことを本気で考えているとはとても思えない。p. 129-132 ・日本の原子力安全委員会の「防災指針」には、ヨウ素に関しては飲食物の摂取制限の基準値が与えられている(飲料水 111ベクレル/ℓ、葉菜7400ベクレル/kg, 牛乳222ベクレル/ℓ)。この基準値はとても高い、とくに、葉菜類の制限値をキログラムあたり7400ベクレルととっているのはどういう根拠なのか、高すぎる値である。p. 184 長くなってきたので今日はこれまでにしてまた明日続きをアップします。要は、政府の基準値を絶対視せず、自衛するしか汚染を減らす手立てはなさそうです。汚染食品の摂取による被曝線量の計算の仕方もp. 130に載っています。

2011年3月23日水曜日

反原発キャンドルディナー

今夜はキャンドルディナー
反原発を食卓からアピールするために
被災した人たち、原発事故で避難や野菜・原乳の廃棄を強いられている人たち、
計画停電の影響を受けている関東圏の人たち、
そして今も福島原発で働いている人たちと彼らの帰りを待ちわびている家族の人たち
皆と思いを共有できますように

ここ数日「原発ノイローゼ」にかかっていましたし、今もかかっています。
北大図書館に行っても、博論執筆は上の空で進まず、原発関連の本を読み漁る始末。

そんな中で「首都圏にいる甥っ子や姪っ子を福島原発からより遠い北海道に呼び寄せたほうが後から後悔しないのでは」と考え、姉や弟に声をかけましたが、今すぐそんな簡単に移動はできないとの返答。確かに、移動して環境が変わるというのは大変なストレスをともなうもので、子どもだったらなおさら。移動に割合慣れている私でさえ、札幌に移動してきたときはそれまで身を置いていた環境から自分がひっぱり剥がされたような「移動の暴力」を感じました。

そして徐々にわかってきたのが、放射能の問題というのは、数日間から1週間そこから逃げれば解決というような性質の問題ではないということ。

原発事故に関する「最悪のシナリオ」は時折見かけますが、「最善でもどうなるか(あとどのくらいこの状況が続くのか)」ということはほとんど誰も教えてくれません。原発にはまったくの素人で、しかも根拠となる情報はここ数日、にわか勉強で仕込んだ原発関連の本数冊、新聞、ネットのみですが、私が今考えるのは、最善のシナリオでも、ここ数日内に全ての原子炉や使用済み核燃料からぴたりと放射性物質の放出が収まるということは難しいのではないか、ある程度長期戦を覚悟しないといけないのではないか、そして、今後長期間私たちは食品汚染など放射能の恐怖とある程度共存しながら生活せざるを得ないのではないかということです。

私のように非常に神経質な人もいれば、弟のように「問題ないから大丈夫だよ」という楽観的な人もいるでしょう。それはそれでいい、ここ1週間くらい、不眠や食欲不振などの原発ノイローゼに悩まされてきた身としては、あまり騒がず不安を増殖させないほうが前向きな時間の過ごし方だとさえ思います。

でもはっきりわかったのは、放射性物質は、土や水に影響を及ぼし、これから長い間そこにとどまること。人間は他の地域や屋内に避難できるけど、土やそこに生えている植物は逃げられない。農畜産物はもちろんのこと、土を直接扱う農家の人たちへの影響が大きく、私たちの食卓を支えてくれている農業に打撃を与えること(道民は冬場は茨城県産の野菜に多くを依存しており、今回被害を受けている茨城県の農家の人たちは文字通り私たちを支えてくれていた)。つまり、私たちがこれから迎える無傷なはずの未来にとんでもない負債を抱えるものだということ。

私のブログの唯一の方針は、自分の作った夕食の記録ですが、それは、毎日囲める食卓に私が大きな価値を置いていることの証明に他なりません。その食卓が放射性物質に汚染されるなんて考えたくもないけれど、それをある程度受け止めなければならない。その受け止めなければならない場所から、原発を推進し途上国に輸出しようとさえしている国、企業、そしてそれを許している社会に対して異議を唱えます。(本当は反原発キャンドルディナー毎日できたらなと思ったのですが、あまりに暗くてカッパさんが食事が楽しめないし、頭痛がしそうだと言われ、確かに食事は目で見て楽しむものでもあるからそれもそうだなと。何か他の方法で反原発をアピールできるよう考えます)

そしてせっかく「原発ノイローゼ」にかかったのだから、のど元過ぎれば熱冷めることのないよう、忘れっぽい自分に自戒をこめて、ここに記します。

あるベトナム研究の先生が「地域学とは地域を愛する学問だ」とおっしゃいました。だとしたら、福島の人たちを地域から無理やり暴力的に引っ剥がしてしまう原発を認めてきたことは、もっとも反地域学的なことではないでしょうか。地域研究者もこういうとき声をあげる必要があるのではないかと思います。

以下はご参考まで、私がここ数日に読んだ本・雑誌です。

・高木仁三郎『市民科学者として生きる』岩波新書 1999年.←反原発運動の中心人物で2000年に亡くなった高木仁三郎さんの自伝。反原発運動を後に展開する高木さんが若い頃は「放射能を怖がっていてはよい研究はできないぞ」と言って後輩に発破をかけていた。専門家だからこそ放射能の恐怖に鈍感になる感覚を、私たち市民はもっと意識してもよいかもしれません。

・高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』岩波新書 1981年.←福島原発3号機のプルトニウムを含むMOX燃料のことを理解したくて手に取りました。怖くてまだぱらぱらとしか読んでません。

・高木仁三郎・渡辺美紀子『食卓にあがった死の灰』講談社現代新書 1990年.→今読むにはあまりにセンセーショナルすぎるタイトルですが、90年の時点で日本に起こりうる原発事故を大変具体的にシミュレーションしていることに驚きます。これを読む限りでも今回の事故が「想定外」の事故ではないことが明らかです。食品汚染に関する正確な知識を得るために、小さなお子さんのいるお父さんお母さんは読まれることをおすすめします。チェルノブイリ事故が起こった後、被害を受けた生産者を消費者が支えたことなども書かれています。

・岩波書店『世界』2011年1月号 特集 原子力復興という危険な夢
福島県双葉町の原発依存の財政構造の問題。ベトナムへの原発輸出のリスクに関する記事など

・岩波書店『科学』2010年2月号 特集 プルトニウム科学の現在─何が問われるか


=3月17日(木)のごはん=
*大根とはす入り肉団子の煮物
*ほうれん草のおひたし
*豚汁
*白米

=3月18日(金)のごはん=
*さば焼き
*はすと昆布のきんぴら
*豚汁
*白米

=3月19日(土)のごはん=
*クリームシチュー
*サラダ
*白米

=3月20日(日)のごはん=
*さば焼き、大根おろし
*レタスと油揚げのおみおつけ
*白米

=3月21日(月)のごはん=
*トマトとベーコンのスパゲッティ
*キャベツのスープ
*サラダ

=昨夜のごはん=
*宗八がれい焼き
*きんぴら
*やまと芋ときゅうりの和え物
*にらのおみおつけ
*白米

=今夜のごはん=
*鶏手羽とたまごのしょうゆ煮
*キャベツとあさりのスープ
*春菊の胡麻和え
*白米

2011年3月20日日曜日

いろんな反応

北海道旅行に来るような気軽な気持ちで、今のうちに(放射能を避けるための)予防的措置として札幌に来てみたら?or 私がベトナムに連れていくという手もあるよ(ベトナムの大家さんから「避難するなら家に来い!」とメール有)と首都圏にいる小さな子どものいる姉や弟に話したら;

姉夫婦:仕事があるし、家族一緒にいた方がよいから今すぐの移動は考えられない。それに北海道に行くには飛行機で上空を通らなくてはならない。上空のほうが放射線物質があって危険ではないか。どうせ避難するならベトナムの方がいい。

弟:そんな大丈夫だよ。原発の状況は今日だいぶ改善したんでしょ。東京はだいぶ福島から離れているし。

首都圏にいるベトナム人の友人たちは?

フオンちゃん:私は日本にとどまる。日本の政府を信用してる。ベトナム政府よりは日本の政府のほうが情報公開していて信用できるから。

ズオン君:航空券買ったから日曜(今日)にベトナムに帰る。東京には人がいなくなってるよ。chị(私のこと)も一緒にベトナムに行こう。

弟は、2歳の子どもがいるのに、おまけに奥さん妊娠しているのにずいぶんノー天気な反応で笑ってしまった。いやーいろんな人がいるねぇ。

2011年3月14日月曜日

地震その後

3月11日(金):7時頃職場にいるカッパさんにメールで、仙台のお母さんお父さんの無事を伝えると、すごく安心した様子。カッパさんも地震発生直後に仙台の実家に電話したが、お父さんのみ在宅で、お母さんの確認が取れず、その後何度電話しても通じなかったので、すごく心配したらしい(お母さんはお友達のお宅を訪れていた。お友達のお家は2階建てアパートで、カッパさんはアパートが倒壊したのではないかと心配だったそう)。私は一度で仙台に電話が通じた。自分の実家には電話が通じなかった。

食事が終わってから家族や友人とメールで連絡を取り合う。何人かの私の友人が、カッパさんの実家が仙台であることを覚えていてくれて「大丈夫?」と聞いてくれる。心配してくれることがとても有難い。私の実家では皆無事。父が出かけていて帰れなかったが、夜中3時に無事帰宅できたとのこと。

カッパさん夜12時近くに仙台にいる高校時代の友達の携帯に安否確認のメール送る。友達からは「夜中に起こすなバカ!」と返事が来た(笑)。仙台市若林区在住のお友達は、停電で情報が遮断されていて、津波がすぐ近くまで押し寄せたことなど知らなかったそう。後で、こんなに大災害だとは思わなかったと言っていた。

3月12日(土):朝目を覚ましたときに「カッパさんの両親は、どんな朝を迎えただろう」と考える。

夕方6時頃、仙台へ電話。今回も1度で通じた。お母さんは大変落ち着いた様子で、電気が通じて炊飯器でご飯を炊いたこと、カッパさんの高校時代の友達が家まで来てくれて、ずれたピアノを直してくれたこと、近くのお友達小山のおばちゃん宅の仏壇が倒れて、お父さんと一緒に直しに言ったことなど話してくれた。小山のおばちゃんは、私たちもお正月に仙台へ帰省するたびにお会いする。今年は美味しいきんぴらをふるまってくれたおばちゃん。おばちゃんは家の中のいろんなものが落ちてきて、昨夜は近くの、カッパさんが卒業した小学校の避難所で一夜を過ごしたそう。でも後は自分で片付けるとおっしゃっていたそう。

お母さんたちは1階の片付けは昨日のうちに終えてしまい、2階は本棚があるので近づかないようにしているとのこと。

ベトナムやインドネシアから無事か?というメールが届く。

なぜか、「無事ですか?」と確認してくれる知人たちは女性が多いねということをカッパさんと話す。男性からの安否確認は少ない。

3月13日(日):昨日からの原発事故に対する不安と、そのテクニカルなんだけどはっきりしない説明に対して苛立ちがない交ぜ。ベトナムも今原発を作ろうとしていて、昨年は前原外相が原発売り込みに行った。ベトナムでは、野党がないし、政府に対して異議申し立てがほとんどできないし、皆原発の基本的な情報すら入手できていないのではないかと思う(日本人だって私も含めて原発の基本的なメカニズムについて知らない人が多いだろうけど)。博論終わったら原発に関してベトナム人に情報を伝える活動などできないかなと思う。

3月14日(月):夕方カッパさんの高校時代の友人から電話がきて、カッパさんがまだ帰宅してなかったので少し話す。スーパーでは買い物は一人1個に制限されているそうで、おコメを買ってきて炊飯器で炊いておにぎりを食べているそう。電話の向こうの相手が食料の入手に困っているというのに、私とカッパは毎日ビールを飲んだり美味しいものを食べたりしている。

東京ではミネラルウォーターやレトルトご飯が売り切れ続出だそうで、小学生のときの経験を思い出す。台風か何かで停電と断水が続いて食事を作れなかったので、近くのパン屋でパンを買ってきて、と母に言われて買いに行ったら行列。列に並んだが、前に並んでいた大人たちが一人でたくさん買い占めてしまい、知り合いだけを優先して行列に割り込ませたりして、結局私はパンを買えなかった。このとき「大人って勝手だな」って思った。もちろん今回は、これから停電や余震などあるから買い置きしようという気持ちはとてもよくわかるけど、こういう状況では自分だけが助かるとかどうにかなるってことはないのではないか。

北海道では冬野菜が取れないので、よく茨城県産の野菜を見かける。フェリーで大洗港から苫小牧に運んでいるのではないかと思うが、フェリーは運休しているし、これから何かしら影響が出てくるだろう。

=3月7日(火)のごはん=
*たらの寒麹漬け焼き、ブロッコリー、かぼちゃサラダ添え
*おみおつけ
*白米

=3月8日(火)のごはん=
*牛肉とピーマンのオイスターソース炒め
*ほうれん草のおひたし
*大根葉と油揚げのおみおつけ
*白米

=3月9日(水)のごはん=
*いわしのペンネ
*サラダ
*キャベツとソーセージのスープ

=3月10日(木)のごはん=
*銀だらの煮付け、ねぎ添え
*大根葉と油揚げの炒め物
*じゃがいもとねぎのチヂミ
*大根葉と油揚げのおみおつけ
*白米

=3月11日(金)のごはん=
*キムチハンバーグ、スナップえんどう、エリンギとしいたけのソテー添え
*キャベツとソーセージのスープ
*白米

=3月12日(土)のごはん=
*おでん
*ひじきごはん

=3月13日(日)のごはん=
*おでん
*たこのマリネ←これは美味しい!
(きゅうりの薄切りを塩もみ、たこはぶつ切。白ワインビネガー、
にんにくとしょうがの千切り、オリーブオイル、塩を入れて冷蔵庫にしばらく置く)
*ひじきごはん

=今夜のごはん=
*ゆで豚とねぎソース、きゅうり、紫たまねぎ、にんじん
*おでんの残り
*たこのマリネの残り
*白米
避難所にいる人たちも、早くお家で温かいご飯が食べられたり、自分の布団で眠ったりすることができますように!

2011年3月11日金曜日

地震

こんなに大きな地震だったんですね。

地震が起こった3時前、私はいつものとおり、北大図書館にいた。
あれ、なんか揺れているみたいだなーと思って周りを見回したら、窓から垂れるブラインドウが揺れていて、これは地震だって気づいた。周囲の図書館員の人たちも「けっこう大きな地震だ」などと言ってた。
北大図書館は本棚が倒れないようばっちり対策をしてあるので、周りの人たちもまったく騒がず静かだった。図書館員の人が「地震で気持ち悪くなった人はいませんか?まだ余震があるようです」と周ってきたが、皆ちらっと顔を上げただけで静かだった。

で、バスに乗ってさっき帰ってきてラジオをつけたら(うちにはテレビがないので!)、なんと東北・関東で大地震だったようでびっくり!!

すぐに仙台のカッパさんの実家に電話したら、お母さんがでて「まあ、どうもね」などと言って大変落ち着いていた。お母さんは地震のときちょうどお友達の家にいて、お友達の家ではいろんなものが落ちてきて、冷蔵庫の中のものまで出てきてしまったそうだ。お母さんはすぐに家に戻って、そしたらお父さんが倒れたものを片付けたりしていたそう。家の中のものはいろいろ倒れたり、ガラスがちょっと割れたりしたがものすごい混乱というわけではなさそうだった。今、停電しているのでろうそくをつけていて、でもガスはつくので、今夜はおかゆでも食べるっとおっしゃっていた。

電車が止まったので家の前の道路を、歩いて帰っている人が多いとのこと。

すごい揺れだったようだが、カッパさんのお父さんとお母さんは落ち着いているというか、そんなにパニックってない様子だったので安心した。

私の実家や姉の家にも電話したがつながらない。で、メールを開いたら母から大丈夫?というメールが届いていた。父はちょうど新宿に出かけていて電車が動かないと帰れないって。職場にいるカッパさんからも電話が通じないとさっきメールがきた。

いやいや、こんな大地震だったとは。
私の友達や皆さん、無事ですか?

2011年3月6日日曜日

一人暮らしの成果

大雪の日の北大近くの丸太小屋カフェ

さて、カッパさんは無事帰ってきましてまた元通りの日常が始まりました。
3週間ほど一人暮らしを送った成果が生活のあちこちに表れたのか、カッパさんは私の言動にいちいち驚いて、「すごいね!smちゃん!」と褒められていました。
その成果とは・・・
・朝起きた後、前日洗った食器を流しの下の棚に片付けた→いつもはカッパさん任せ。カッパさんは私が食器を棚にしまうのをほとんど見たことがなかったそう
・「今日はごみの日だね」とごみのことを気にした→普段はカッパさんにお任せ。ごみの日が何曜日かも忘れていた
・コーヒーを飲むために沸かしてやかんに残ったお湯を、お茶のポットに入れた→普段は残ってもそのまま
・読み終わった新聞をカッパさんに渡したとき折り目がぐちゃぐちゃだった。カッパさんがそれを見て「もう少しきれいにたたんでよ」と言ったらそれに同意して「そうだね、よくないね」と言った→普段は「なんか文句ある?」と意に介さない。
それにしても、こんなことで褒められるなんて我ながらレベル低いなーそしてこんな細かいことにいちいち反応するカッパさんは大変細かい人であることを久しぶりに実感。

カッパさん帰国の日に歓迎のケーキを焼きました。
100円ショップで買った紙の型、型にバターを塗る手間や洗う手間がないし焼きあがればびりびり破って捨てるだけなので楽です(エコではないか?)

=2月25日(金)のごはん=
*豚のしょうが焼き、キャベツの千切り
*ポテトサラダ
*わかめのねぎのおみおつけ
*白米

=2月26日(土)のごはん=
*銀だらのにつけ、焼きねぎ添え
*蒸しかぼちゃ
*せり炒め
*ふのりのおみおつけ
*白米

「ふのり」はさささっと洗ってぽんと味噌汁の鍋に入れればできあがり
磯の香りがしてこりこりしてとっても美味しい
ふのり万歳!

=2月27日(日)のごはん=
*豚キムチ炒め
*アボガドとまぐろの山掛け
*大根と大根葉のおみおつけ
*白米

=2月28日(月)のごはん=
*さば、大根おろし
*あさり豆腐
もやしと油揚げの炒め物
カッパさん不在の間朝聴くようになったラジオビタミンで流れていたレシピ
もやしを強火でさっと炒めて細切りにした油揚げも合わせていためる。
オイスターソースとコショウで味付け。
肉がなくても油揚げが入るとおいしいよ!
*味噌汁
*白米
=3月1日(火)のごはん=
*大根とスペアリブの煮物
*たこサラダ
*わかめとねぎのおみおつけ
*白米

=3月2日(水)のごはん=
*さば、大根おろし
*小松菜の炒め物
にんじんのナムル
*たこサラダ(残り物)
*卵とえのきのスープ
*白米

=3月3日(木)のごはん=
*カッパさんお土産のドイツソーセージ
*ザワークラウト
*ミネストローネスープ
*パン

=3月4日(金)のごはん=
秘密のやわらかチキン
*ごぼうとれんこん、ひじきのきんぴら
*ミネストローネ
*白米

=昨夜のごはん=
豚しゃぶ(白菜、水菜、えのきだけ、舞茸、
ぷるんぷあんというインドネシア産ムカゴこんにゃく
↑お鍋にぽんと入れるだけ。ぷりぷりしてなかなかのヒットでした)

=今夜のごはん=
*にしんのお刺身
*スナップえんどうの胡麻和え
*鶏むね肉、紫たまねぎとわかめの中華風サラダ
*キャベツのおみおつけ
*白米